大阪市内のだんじり祭り鍼灸師・段上 功のブログ

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カイロプラクティックの学校を経て鍼灸師へ。4年間弟子入りしていた師匠との出会いと、ボキボキする矯正をしない理由。

野球日本代表「侍ジャパン」の強化試合が始まりましたね。
初戦は広島・菊池を外してヤクルト・山田を3番セカンドで起用。4番候補だった横浜・筒香が5番、日本ハム・中田が4番に座るというオーダーでスタートしました。
来年の3月にあるWBCに向けた強化試合なので、どのオーダーが機能するのか色々と試してほしいですね。

こんばんは!城東区・段上はり灸整骨院院長の段上 功(だんじょう いさお)です^^
Facebookでシェアした昨日のブログにたくさんのコメントを頂き、本当にありがとうございます。同じような経験をされた方も多いようで、また新しい気付きになりました。 

hari9danjiri.hatenablog.com

そこで書かせていただいたように、治療家という道を選ぶ大きなキッカケになったのは中学時代の右ヒジの骨折からでした。
本日は治療家の道へ進み、そこからなぜ鍼灸師になったのかを書きたいと思います。

【まえがき】
大学を中退して選んだのは、カイロプラクティックの学校でした。
一般的にバキバキ・ボキボキと音を鳴らし、骨の歪みを調整し、症状を改善していく手技のことです。
中学の時に練習場に治療に来て下さっていた先生が治療をしていたことが頭に残り、その道に進みました。

ただ、ココで学んだ手技は今は一切使っていません。
学んだ結果、ボクにとって必要のないものだと判断したんです。

ですが、行った意味がなかったかと言われれば、そうではありません。
この学校で、ある一人の先生と出会いました。
後に師匠となり、本格的な鍼灸治療を4年間弟子として学ばせてもらった方です。
ボクの治療家としての人生を大きく変えた出会いがココにありました。

カイロプラクティックを学んだ1年間】
大学を中退したボクが、治療家になるために選んだ道はカイロプラクティックの学校。
その学校は、勉強期間を自分で選べるシステムだったんです。
3ヶ月・6ヶ月・1年。
選んだ当時は3つのコースがありました。

ボクは1年のコースを選択。
他の学校には2年制のところもある中で、この学校を選んだのは「親に迷惑を掛けた」という想いから「少しでも早く、少しでもしっかり学びたい。」と考えたからでした。
それには1年という期間はちょうど良かったんです。

入学した学校での勉強は、手技がメインで、座学はあまりありませんでした。
カラダのことを学ぶ座学はそこそこに、バキバキ・ボキボキ鳴らすため、骨を矯正するための考え方、力の強さや方向などを主に学んでいきました。

首・肩・背中・腰・股関節・骨盤・仙骨・顎・肋骨・胸骨などの各部位をいくつかに分けて練習をしていきます。

教えてもらっても、初めはなかなか出来るものではありません。
力の加え方も方向も全然わかりません。
早く身につかたかったので、家でも相当練習しました。

ただ、回数を重ねていくうちに何となく感覚が掴めてきました。
それでも「何となく」です。

治療家として成功するために、何度も何度も反復して、カラダに染み込ませていきました。

そうやって学んでいくうちに、3ヶ月コースだった方、6ヶ月コースだった方がどんどん卒業をしていきました。
カイロプラクティックの治療所は従業員を取らない方が多く、働き場所がほとんどないので、卒業生はみんな自宅や店舗にて開業をしていきました。

開業していった方たちは、ボクと同じ時期に勉強をスタートした方たちです。
自分がまだ「治療」というコトバがはっきり明確に見えていない段階で、周りが開業していくことに「本当に大丈夫なのか。」と若干のギモンを抱いていました。

そう思っていた矢先、開業を明日に控えたある先輩が学校に挨拶に来られました。

そしてそのついでに、後輩であるボクたちに実技指導をしてあげると言うのです。
何かイヤな予感がしたのでボクは拒否したのですが「カラダが細くて骨が触りやすい」という理由で、ボクが受ける立場(モデル)に選ばれました。

そして実技指導を開始。
首の矯正が終わり、胸椎(背中)の矯正の時です。

「バキッ!!!!」

大きな音と共に、今までに感じたことのない痛みを覚えました。
そして、一瞬息が出来ませんでした。

「ゴメン、ゴメン」と謝る先輩をよそに、ボクは普通じゃない痛さに打ちひしがれていました。
それからモデルを交代し、他の部位を一通り終わらせ、その日はそれで終了しました。

ただ、帰宅しても痛みが全然引かず、翌日になっても痛みが取れなかったので、かかりつけの病院へ行きました。
そしたら先生に「これ、肋骨折れてるよ。」と言われました。
予想はしていましたが、骨折でした。
もう笑うしかありません(笑)

先輩の掛ける圧力が強すぎて骨が折れちゃったんです。

開業前日の方が手技で肋骨を折ってしまう。
その一件があってから、本当にこの学校で学んでていいのかなとずっと自問自答していました。
ただ、せっかく選んだ道なので、学べるものは学ぼうと何度も何度も反復して練習しました。
そして外部から講師の方が来て教えて下さるセミナーにも積極的に参加しました。

そんな時に参加したあるセミナーがあったんです。

「四肢のテクニック」というセミナー名で、カイロプラクティックではなく、他の手技を使って筋肉や関節を緩めていくという内容のもの。
今の自分にはコレが必要なんじゃないかと思い、ボクはそのセミナーを受講しました。

実際、そのセミナーは期待以上のものでした。
ボキボキ・バキバキなんて一切しません。
講師の先生は、優しく、ソフトなあらゆる手技を披露して下さいました。

「カイロ以外にもこんな手技があるんや!」と驚かされたのを今でも覚えています。

転機はココからです。
その授業の終盤に、その講師の先生がボクたちに質問をしたんです。

「ここを卒業したら開業しようと思っている人、手を挙げて」と。

どんな意図があったのかはわかりませんが、そんな質問を投げ掛けました。

そしてそこに居た30人中29人が手を挙げました
手を挙げなかったのはボク一人だけ
あとはみんな手を挙げていました。
ボクは先輩の一件があり、思う部分があったから手を挙げませんでした。

そしたらその授業が終わった後に先生が、
「君は何であの時に手を挙げなかったん?」
と質問をしてきてくれました。

そしてボクは、
「人のカラダを触るのに、これぐらいの知識ではダメだと思うんです。もっともっと知識も技術も付けないと、開業なんて出来ません。だからボクは手を挙げませんでした。」
と答えました。
実際に、その学校は実技は多かったものの、座学はほとんどなかったんです。
本来じっくりと学ばないといけないカラダに関わる解剖学や生理学といった科目は、たった一日しかありませんでした。

そんな答えを返したボクに先生が、一枚の名刺を渡して下さいました。
そして「それなら鍼灸の学校に進んだ方がいいよ。もし興味があるなら連絡してきて。」というコトバを付け加えて。

その名刺には関西医療学園非常勤講師」と書いてありました。
後で知ったのですが、関西医療学園鍼灸では大阪で一番有名な学校でした。
そこで講師をされている偉い先生だったのです。

それからボクは引き寄せられるように鍼灸の道へ。
ボクの運命を変えた師匠との出会いは、このカイロプラクティックの学校ででした。

少し付け加えておきますが、カイロプラクティックの全ての学校がこんな状態だとは言いません。

ですが、国家資格で3年間通わないといけない鍼灸師柔道整復師の学校などと違い、カラダの知識を学ぶ機関としては浅いと思います。

そして、ボキボキ・バキバキ鳴らすことの危険性を痛感しました。
もちろん、上手な方もおられますが、医療事故で一番多いのは「矯正」です。
それがいかに危険かは、語らずともその結果が表していると思います。

実際に、そんな強い手技を使わなくても、筋肉や関節は柔らかくすることが出来ることを知りました。
そして鍼灸を勉強した今、ボクにとって全く必要のない手技になりました。
だから今は全くカイロプラクティックの手技はおこなっておりません。

【それから鍼灸師の道へ】
カイロプラクティックの学校を卒業する頃になり、将来をもう一度考えました。
どの道が正解なのか、色々と悩みました。

そしたらやはり「このままではいけない。」という考えに行き付きました。

そう思ってからの行動は早かった。
名刺を下さった先生の次のセミナーがいつなのかを調べ、その日の授業が始まる随分前から、学校の前で待ち伏せしました。
そしてちょうど学校に入ろうとしていた先生に話し掛け、
「先生、鍼灸の道に進みたいんです!!」と想いを伝えました。

その後少し話を交わし、
「よっしゃわかった。他にも今年何人か鍼灸の世界に行く人間がおるから、いっぺん治療所においで。」
と声を掛けてもらい、先生が営んでいる鍼灸治療院の場所を教えてもらいました。

そして後日、先生の所へ挨拶に。

一通り治療を見学させてもらった後に、鍼灸のこと、カラダのこと、学校のこと、たくさんお話を聞かせてもらいました。
後に兄弟子になる方のお話も聞かせてもらいました。

そこでその先生がスゴイ先生だということも改めて知りました。

たくさん話を聞いた上でもボクの気持ちは変わらず、鍼灸の道に進むことを決断しました。

そうはいっても、まずは学校に受からないと話になりません。
当時は倍率も高く、まだ学校に入りづらい状況だったので、先生から「死ぬほど勉強しろ」と言われました。

科目は国語と生物。
生物は高校で習わなかったので、高校に行って生物Ⅰと生物Ⅱの教科書を買いに行きました。
そこから猛勉強し、なんとか合格。

後日、合格の報告をしに先生のところに行きました。

でも、もうその時には腹をくくっていたんです。
先生の弟子にしてもらおうって

着いて色々お話をさせていた後で、先生に頭を下げました。

「先生、ボクを弟子にして下さいっ!!」

そう伝えると先生は、
「おれも弟子入りしてる頃は無給やったんや。同じように、うちは給料を払ったりでけへんけど、それでもいいのか?」

と返して来て下さいました。

すかさずボクは、

「はい!大丈夫ですっ!!」と答えました。

今思うと、思い切った返しをしたなって思います(笑)
本当にそれから3年間は無給で、後の1年間も交通費を引くと1ヶ月分の昼食代ぐらいにしかなりませんでした。

ただ、兄弟子も同じ道を歩み、師匠自身も弟子時代は無給で、そのお師匠さんも無給で弟子入りしていたそう。だから、学生時代は朝早く起きて、新聞配達をして生活費を賄ったというお話を聞きました。

ボクは居酒屋さんや工場、焼肉屋さんなど遅い時間に働ける多種多様なアルバイトをしました。
それも色んな仕事を知れた良い勉強でした。

弟子入りに際し、師匠から一つだけ条件をいただきました。

それは学校に入る前に『ツボを全部覚えてくること』

二つ返事で答えましたが、手渡された本はコレでした。

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まさかこんなに量があるとは思ってもいませんでした。

ですが、今まで弟子入りした人たちはみんなそうしていて、ボクと同じ時期に鍼灸の道に進むことになった方はもうすでに覚えてきたと言われました。

だからそれから必死で覚えました。

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名前も読み方も場所も全然わかりませんでしたが、案外何とかなるものです。
1ヶ月ほどで全てを覚えて、晴れて弟子入りを認めていただきました。

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【弟子時代のお話】

ボクはこの師匠の下で、鍼灸の奥深さと素晴らしさを知りました。

ギックリ腰で歩くのがやっとだった方が、帰る時には普通に歩けていたり、逆子の治療をお灸をすえて一度で治したり、円形脱毛症も回を重ねるごとにみるみる引いていくのを目の当たりにしました。
脳梗塞の後遺症の方やパーキンソン病の方、脊髄小脳変性症という脳からくる病気の方も鍼灸で改善していく。
女性が悩む生理痛や生理不順も、朝起きて指がこわばるリウマチも、夜が眠れなくて困っている不眠症の方も、みんな鍼灸治療で改善していきました。

鍼灸ってすごい!」

その時の衝撃は今でも忘れません。
ただ、自分がそこまでのことが出来るようになるまでは相当な時間が掛かりました。

ボクのその師匠は昔ながらの職人さんのような方でした。
「見て学べ、わからんかったら調べろ、出来るようになるまで稽古しろ。」
本当にそれしか言われませんでした。

だから師匠の一挙手一投足を目に焼き付け、なぜそこに鍼をうつのか、なぜその角度なのか、なぜその深さなのかなど、そんなことを常に考えながら見ていました。
そして「学校では絶対に実技は一番になれよ。みんなそうしてきたから。」と言われていたので、めちゃくちゃ稽古しました。でもそれがあったから今があるんです。

こうやって26歳という若さで開業出来たのも、たくさんの治療現場を見学させていただき、また治療経験を積ませていただいたお陰だと思っています。

出会いは必然だっていう方がおられますが、本当にそうなんじゃないかなと思っています。出会うべくして出会っている。ボクはそんな気がします。

弟子時代のお話は膨大な文章になりそうなのでまたどこかで書かせていただきたいと思います。

十分長くなったので今日はこのヘンで^^

本日も最後までお読みいただき本当にありがとうございました!

それではまた~♪

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