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大阪市内のだんじり祭り鍼灸師・段上 功のブログ

鍼灸師だからこそ伝えられる、ためになる情報をお届けします!同時に、だんじりや野球など、趣味や日常の発信もしています^ ^

大学を中退して進んだ治療家の道。なぜ治療家を志したのか。

オリックス・糸井、日本ハム・陽、西武・岸、DeNA・山口など、球団のトップクラスの選手たちがFAを宣言し、他球団との交渉を開始させる模様です。
今年はなかなかの選手が集まりましたね。
一人動くだけで、そのどちらの球団にも影響が出そうな選手ばかり。選手たちがどういう決断をし、どこの球団に移籍するのか、今から楽しみで仕方ありません。
野球の話をし出すといつまでも終わらないので、このヘンで終わらせますね。

こんばんは!城東区・段上はり灸整骨院院長の段上 功(だんじょう いさお)です^^

「先生は何でこの仕事をしているの?」
これは、患者さんとお話していて本当によくご質問をいただくんです。
初めての方もそうでない方も。
患者さんにはお伝えしている話ですが、ブログでは初めてですね。
もしかしたら誰も興味がないかもしれませんが、良ければご覧ください^^

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【好きなことを仕事にする決断】
高校時代は何不自由ない生活を送っていました。
成績はトップクラス。
学年全体で見ても、いつも10位以内に入っていました。

3年間の評点平均は4,9点と学年でトップ。
学校で1番最初に指定校推薦校を選ぶ権利を得ました。

悩んだ末に指定校推薦を選択して大学へ進学。
プログラミングや情報科学を勉強する学部へ進みました。

でも、1年で中退してしまったんです。

1年間大学で学ぶ中で、自分が本当にやりたいことでは無いと気が付いたんです。
というより、押し殺していたキモチが表に出てきてしまったという方が正しいかもしれません。
元々やりたかったことは情報関連のことではなく、カラダに携わることだったんです。

大学に入り、自分の将来について1年間向き合って見たものの、パソコンと格闘する自分の姿が見えなかったんです。
好きでもない仕事を嫌々やっていくのか、好きなことを仕事にしていくのか。
たくさん迷いました。
そして決断したのは後者の方。
「好きなことを仕事にしたい」と心の底から思い、親に頭を下げました。

【治療家を志す原点は中学時代】
カラダに携わる仕事に就きたいとぼんやりと思ったのが中学時代。
野球をやっていた頃です。
小学校の軟式野球チームを卒団し、中学は学校の部活ではなく、硬式野球チームに入団しました。

小学校では1番ショートが定位置だったボクにとって、あまりのレベルの高さに驚きました。

入団前の練習で、同じポジションに7人も居たんです。
それもボクが一番下手くそだった。
先輩方もみんな驚くほど上手かった。

それでも「ここで野球がしたい」と親にお願いし、入団を決意。

そんな矢先、球団から指定された入団前のメディカルチェックで、ボクの右ヒジが骨折していることが発覚。
1年間はボールを投げることも、バットを振ることも禁止、リハビリにも最低週に3回は通うように言われました。

今からスタートというタイミングでです。

その診断をウソだと信じたかったボクは、別のスポーツ整形を受診。
プロ野球選手も度々訪れる病院で、ボクが行った時も現・阪神福留孝介選手が来られていました。
そんな有名な病院での違った診断を期待しました。

ですが、結果は同じ。
右ヒジの骨折は間違いなかったんです。

そして院長先生は続けてこう言いました。

「もう野球やめたら?」
「バスケットでもバレーでも、球技ならなんぼでもあるで。君は他のスポーツの方が向いてるんちゃう?」

今思えばボクのことを想った温かい言葉なのかもしれません。
ですが、野球をやりたくて仕方がなかった当時のボクにはそんな風には思えませんでした。
とにかくめちゃくちゃ悔しくて、同時に腹が立ちました。

だから意地でも野球を続けてやろうと決意しました。

【利き腕の変更と苦悩】
野球を続けるにしても投げることが出来ない、打つことが出来ない人間はまとも練習が出来ません。
だからボクは、みんなが練習をしたボールを拾う係と、監督やコーチがノックを打つ時のボールを渡す役をずっとしていました。
みんなが成長していく姿を目にし、若干の嫉妬を抱きながらも、野球に携わることが出来ていることに喜びを感じていました。

練習が終わると、右ヒジのリハビリのために整形外科や整骨院へ。
それと同時に、左投げ・左打ちの練習も始めました。
たまたまちょうど1学年上の先輩にボクと同じ境遇の方がおり、左投げに転向したということを聞いたことが後押しになりました。

それを決意した時に、父親が左利き用のグローブを買ってくれたことは今でも忘れません。

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応援してくれる親のためにも全力で頑張ろうって思いました。

ただ、転向するとはいっても、マンガの世界のようにすぐには投げられません。
フォームも、指の掛かりも、方向もキョリも、全く思うようにいかないんです。
それが本当にもどかしくてもどかしくて。
自分ではあまり覚えていませんが、かなりナーバスになっていた時期もあるようです。

だから少しでも指の感覚を研ぎ澄ませるために、投げること打つことだけでなく、授業中に書くノートは左手で書き、ご飯も左手で食べていました。
鼻をかんだティッシュをゴミ箱に捨てるのも、あえて離れたところから左手で投げたり、毎日毎日必要以上に使っても、長年培った利き腕の感覚には遠く及びません。

ですがその甲斐があってか、少し経った頃には塁間のキョリを正確に投げられるようになり、気付けば50メートルほどのキョリが届くぐらいボールを投げられるようになっていました。
その頃には、温情ではありながら試合にも出させてもらい、練習も普通に参加出来るようになっていました。

そんな時に今度は左肩を痛めてしまったんです。

キモチが焦り、悪いフォームで投げていたことが原因です。
全治は3ヶ月。
それから左肩のリハビリも追加しました。

右でも左でも投げることが出来ない分、誰よりもたくさん走りました。
そうすると今度は下半身も悲鳴を上げ、股関節や足関節など、色んな箇所を故障しました。
身長だけが急激に伸び、カラダが付いていけなかったことも一つの要因だと思います。

故障をする度に追加されていくリハビリ。
毎日に近いぐらいの頻度で治療に通っていました。
同時に、痛めないフォームを教わってカラダに染み込ませ、自分でもたくさん勉強しました。

そんなケガばかりの中学校生活。
3年間まともにプレーは出来ませんでしたが、20人以上が辞めていった中で辞めなかったことは、ボクの人生にとって大きなことでした。
練習に参加出来ない、試合に出られない中で最後までやり遂げ、忍耐力を身に付けました。

そして、プレーする仲間や相手チームのカラダの使い方や動き・仕草を眺め、観察するチカラを養いました。

これは今の仕事にものすごくプラスになっています。

故障をし、人を観察し、リハビリをする中で、自分と同じような環境の人を支えられるような仕事に就きたいなというのを考えていました。
大好きなことを出来ない環境になったことがある人間だからこそ、何か伝えられるものもあるんじゃないかなって感じたんです。

【大学を中退して治療家の道へ】
中学時代にそんなキモチを抱きながらも、高校は普通科へ進学。
カラダに携わる学校に進まなかったというより、進み方がわからなかったんです。

それで普通科を選択。
その中でも「情報コース」という、パソコンを触るコースへ進みました。

高校に入った頃でも右ヒジも完全に治らず、投げるとまだズキッと痛んでいました。
だからもう、野球をやらないことを決断。

それならその分勉強をしっかりやろうって心に決めました。

そのお陰もあって大学へも不自由なく進学することが出来ました。

ただ、そこで「やりがい」を見失ったんです。
冒頭に書いたように、パソコンの内部の話であるプログラミングを毎日毎日学びながら、どうせやるなら「イヤな仕事をするんじゃなくて、好きなことを仕事にしたい。」って、そう感じたんです。

高い入学金を払ってくれた両親に頭を下げました。

もちろん最初は大反発。
当たり前ですよね。

ですが、最終的に認めてくれて退学することを決意しました。
本当に親には感謝しています。
あの決断を認めてもらえてなかったら、今頃どういう人生を送っているのかな、なんてふと思ったりもします。

指定校推薦という学校から1名だけが入れる制度を利用したので、「迷惑が掛からないかどうか」を確認するため、高校にも連絡をしました。
校長先生と理事長さんとお話することになりました。
ボクの想いを説明すると「不義理じゃないので、それなら問題ありません。」という言葉を頂きました。

そして大学を退学し、治療家の道へ。

ただ、治療家さんに知り合いが居たわけでもなく、右も左もわからなかった19歳の若造は、これ以上親に迷惑を掛けたくないというキモチから「出来るだけ短く学べて、早く仕事に就けるところ」を探しました。
そして選んだのは、1年制のカイロプラクティック(整体)を勉強する学校でした。

結果的にはそこが今のボクを形成する運命の場所になりました。
ですが、治療家のスタートとしては正解だったのかはギモンです。
現に、ボクはカイロプラクティック独特のボキボキしたりする矯正を一切おこなっておりません。
基本的には鍼灸のみで治療をしています。

ではなぜ、ボキボキしないのか。

そんなお話をしようと思ったのですが、長くなりすぎたのでまた明日お伝えさせていただきます。

ボクが治療家を志した一番の要因は、中学時代の故障があったから
それがなければきっと治療家にはなっていませんでした。
全国大会に出るほどの強いチームに居りながら試合に出られない、練習が出来ないという環境は、中学生の少年にとって決して楽しいものではありませんでした。
ですが、今現在の道に進ませてくれたことを考えると、本当に大切な出来事だったなって思います。

ではまた明日この続きを書かせていただきますね^^
最後までお読みいただきありがとうございました!
それではまた~♪